違和感と孤独を振り返るBlog

いわゆる「一般社会」「周囲の環境」に自分を合わせ込んで40年。3年前のメンターとの出会いをきっかけに、ずっと奥にしまって分からなくなっていた自分の感覚や感情を少しずつ取り戻し始めました。幼少期から現在に至るまでに感じた「違和感」と「孤独」を綴るBlog。過去を再認知していくこの行為を通じて、私の体験や内なる感覚を言語化していきます。

自分のエゴ<相手のエゴ?!

ここ数週間、「自分にもエゴはあるが、相手のエゴの方がすごい。」という前提をおいていた。

 

そして、相手の強烈なエゴが出たときは、たとえ自分が気分を害しても我慢し、戦わず受け流すと、相手のエゴが小さくなるように感じていた。

 

しかしよく考えてみると、「自分にもエゴはあるが、相手のエゴの方がすごい。」という前提をおいている時点で、優越をつけている(判断している、戦っている)ことになるのではないか?それこそエゴなのではないか??

 

自分の中にエゴが潜んでいる限り、相手の強烈なエゴとなって現れ続けるのかもしれない。

 

また、気分を害した際、我慢せずに自分の気持ちをぶつけてみると、相手はエゴから生じた言動ではなかったと気づくことがある。

 

これも「自分にもエゴはあるが、相手のエゴの方がすごい。」という前提をおいているからではないか? 相手のエゴから出ている言動という認知を自動的にしてしまっているようだ。

 

相手のエゴ、つまり自分のエゴは、どんな心理の時に出るかを観察することで、自分の中にあるエゴを炙り出して、関係性を断つことができるのかもしれない。

 

そして、エゴとの関係を断つ感覚をつかんでる状態でLayのサービスを提供すると、クライアントによりメッセージが伝わりやすくなり、本質的なサポートができるのかもしれないと思う。