幼少期に聞かれる「将来何になりたいか?」という質問
あれはもう35年も前の話。私は当時、両親と3つ下の弟と一緒に暮らしていた家の近所の私立幼稚園に通園していた。
私たち園児は、先生から「将来何になりたいか?」と1人ずつ問われ、その回答を、色画用紙をチューリップの形などに切り抜き、首から下げられるリボンを通したものに書くという行事があった。
友人たちは、当時人気だった「ケーキ屋さん」「花屋さん」「看護士さん」「プロ野球選手」「警察官」など、次々と答えて行ったが、私はいくら考えても出て来なかった。
「将来何になりたいか?」という質問であったが、「まだよく知らない限られた「職業」の中から一つ選ぶ。」ことを強いられたことに違和感を覚えていたのだと思う。
ずっと答えが出ないままであったが、最終的には、先生から半ば誘導される形で無理やり何かを答えることを強いられたため、納得がいかないまま「看護師さん」と答えたことをはっきり覚えている。
この日以来、現在に至るまで、私にはなりたい「職業」がない。
ただ、小学校高学年の学級文集には、意図を持って「バリバリ働くキャリアウーマンになりたい。」と書いたのを覚えている。その文集は未だ実家に残っている。
両親は、私が幼少期よりそれぞれが起業していたが、徐々に家庭が崩壊していき、器物損壊や暴力を交えた両親の夫婦喧嘩が絶えなくなり、私が小2の時にはとうとう母親が家を出て行った。
地方の保守的な街に住んでいた私は、友人や友人の母親たちから好奇の目で見られていたように感じ、生きづらさを感じていた。しかし小学生の私には、親元を離れて暮らす知恵も経済力もなく、「自分が稼いだお金で自分で意思決定して生きている状態」に強い憧れを抱き、「バリバリ働くキャリアウーマンになりたい。」と書いたのである。
今このブログを書いていてふと思うことがある。「自分がどう感じるか?」「何をしたいか?」が起点になっておらず、最近まで心の底では両親への怒りを感じていたり、両親を反面教師のよう否定的に捉えていたため、反発的に「自分が稼いだお金で自分で意思決定して生きている状態」に憧れていたようにも思える。
現在は両親のことを含め、様々なことを少しずつ受け入れられるようになって来ているため、捉え方が今この瞬間変わったように感じる。
当時の私は、潜在意識の中で「自分がやりたいと思うことをビジネスを通じて実現」しようとしていた両親を既に肯定していたのかもしれない。